武石の郷から平和を考える

ローマ教皇の演説。

松原 邦彦(2019.11.26)

 2019年11月24日、ローマ教皇フランシスコが長崎と広島を訪れ、演説。核廃絶をを訴えた。その全文が 信濃毎日新聞に載った。すこし固い言葉で翻訳されているので私はこれを熟読し、その肝心な部分について 私なりにその真意を汲み取り、平易な言葉で表してみようと試みました。

[広島]
 私は今の世の中に不安と苦しみを抱えていて、声を出しても聞いてもらえない人々の声になりたいと思います。 その声とは、みんなで平和に暮らそうとする人たちの声です。武力で平和を守るかのようにふるまうことへの不安と苦しみの声です。

 確信をもって申し上げます。戦争のために原子力を使うことは犯罪以外の何物でもありません。人類の尊さに反する だけでなく、私たちの未来を壊してしまいます。
 原子力を戦争に使うことは人の道に反します。私たちは神の裁きを受けます。次に生まれ来る人々が 私たちを「平和について話すだけで何一つ行動しなかった」と言って裁きにかけることでしょう。
 戦争のための強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなどどうしてできるでしょう。「差別」と「憎しみ」 について演説したとしても役に立たず、自己満足するだけです。それでどうして平和について話せるでしょうか。
 平和とは、間違いのない道理(真理)、正しい行い(正義)、他人を気遣うこと(愛)によって息ずきます。そして自由な雰囲気 で形作られなければなりません。そうでなければただ言葉だけのものになってしまいます。
 人々の間には知識や徳、才能、富めるものとそうでないものなどの差があるのを認め合うことです。自分だけ得をすればよいという ことは正しくありません。その差を認めることは自分の持つべき責任と他人への尊敬へと繋がるのです。
 ですから国家や政治共同体は文化や経済力などに差があっても、お互いに進歩し、良い方向に進むように努力する責任があります。 具体的にいうと、より正しく安全な社会を築きたいと望むなら武器を手放さなければなりません。武器を手にしたまま相手を 愛することはできません。
 武器を使って戦い、平和を勝ち取るという理屈に負け、話し合いから遠ざかってしまえば、より多くの犠牲者を生み、廃墟を増やすと 判っていながらさらに武器の力に頼る。そういう悪夢に陥ってしまうのがわからなくなるのです。
 武器や兵力はとてつもなく大きな費用を必要とするし、みんなで力を合わせた事業の企画や作業計画が滞り、 民の気持ちを台無しにしてしまいます。核戦争で相手を脅かしながらもめ事を解決するなどといって、 どうして平和を提案できるでしょうか。

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これは演説の全てではありません。核兵器の廃絶を訴えた肝心の部分です。政治に携わる者は心に刻んでほしい。  

日本の外交の真価と米朝首脳会談。憲法問題。