「原研荒谷台住宅の思い出」

(アンダーラインの部分をクリックすると参考写真が表示されます)

 2002年4月20日から23日まで東海村と大洗に行って来た。
 懐かしい原研荒谷台住宅を訪ねた。
 住宅入り口付近 に車を進めると、ちょっとしゃれた住宅標識が目に飛び込んできた。
 しかし、懐かしの  荒谷台の11棟付近 は更地になってしまってとても残念。  12棟付近の道路から 見える向こうの建物は旧建物を取り壊したあとに建てた新棟だ。9棟、10棟ももはやない。
 数年前までは住む人々もまばらに、かなり古くなった棟が、それでも昔のまま建っていた。いまわずかに 1,2,3棟 が残り、昔の姿を止めている。
 建物がいくつも消えてなくなっている。東海村は畑や田んぼの連なる農村ではなくなり、いまや都会化してにぎやかな村だ。変貌する村の風景からなじみの建物が消えていくのは寂しいものだ。
 私がまだ子供の頃、「廃屋の我が家」という歌があって、都会で活躍する作者が、子供だった頃を思い出しながら、過ぎし日を思う歌が歌集に載っていたのを思い出した。それは藁葺きの廃屋で、寂れゆく故郷を嘆く歌だった。
 これならまだ廃屋のほうがましだな、歌になるのだから、と考えながら過ぎし昔の思い出に浸った。

 昭和42年に原研に赴任した私は荒谷台住宅に入った。当時は小さな子供が何処にも居て、ほぼ同じ年代の家庭が揃っていた。都会は住宅難時代だったから、当時としては恵まれたこの住宅条件で、主婦達は嬉々として子供の養育に明け暮れて、辺りにはいつも子供達の声がしていた。
 高度成長時代の真っただ中で、原研の男達は科学技術の先端の仕事にみな燃えていた。夕方になると、どの棟にも帰宅が遅い夫を待つ妻と子供達の声が、灯りと共にいつもにぎやかに聞こえていた。
 当時、ここで育った子供達には、たぶん懐かしいだろう、 あの遊園地は現存 していた。そして原研通りの おもちゃ屋「てんまや」 も。太平洋戦争で片手を失ったというあのご主人はどうしているだろう。
文と撮影:松原邦彦

「喫茶室」に戻る。
「佐藤一男氏の叙勲祝讃会とJP-U開発室の思い出」

(アンダーラインの部分をクリックすると参考写真が表示されます)

2003年11月27日、元原子力安全委員長の佐藤一男氏の叙勲(旭日重光章)祝讃会が東京青山の「JNL青山」で開かれた。
元JP-U開発室メンバーを主体とする祝賀会で、主催者は小山内氏。昔話に華が咲ききました。
当時のメンバーで連絡が取れないとのことで、同じ動特性グループで当時一緒に研究していた何人かが出席されていませんでした。そこでここに当日の 全員記念写真 を掲げることにしました。
当日、カメラが準備されていなかったとのことで、とりっきりカメラで撮られたので、やや解像度に難がありますが、 連絡が取れなかった人は見てください。
出席者は三井田純一氏、佐藤一男氏、小山内正夫氏、落合 浦氏、小野 章氏、木下武彦氏、石塚 信氏、菊池 忍氏、竹内栄次氏、竹田練三氏、矢田 実氏、原山泰雄氏、内藤淑孝氏、高橋裕幸氏、平井啓詞氏、山田泰正氏、若杉和彦氏、と筆者。
話が当時の JP-U開発室 のころに及ぶと次々とあのころの光景が浮かんできました。この写真の室内の壁にはJP-Uプロジェクトの組織図が あるのですが、残念ながら昔の写真にて読み取れません。
辻さん も懐かしいです。あのころはひたすら鉛筆を削って、動特性解析コードのフローチャートを書き、カードパンチをしてはプログラムを作っていました。昔のアルバムを探したら JPDRの制御室の一こま が出てきました。
文:松原邦彦
長野県上田市下武石在住。

「喫茶室」に戻る。